保守思想は、「保守」なる言葉の保ち守つという語義からか、軟弱で消極的な思想と思われがちである。あるいは、頑迷でおよそ非合理的な思想であると思われがちである。しかしながら、これは単なる先入観であり、端的にいって誤謬に過ぎない。
保守思想とは戦闘する精神の営みである、と言えば、世人は驚愕するやもしれないが、実は保守思想とは精神における破壊者・革命者と常に戦い続ける思想である。
人間存在そのものを問うてみたとき、それは、そうでありたいと願いながらも理性的でありえない存在であり、実に不可思議な存在である。近代以降に顕著な合理主義は、この非合理性を排し、全ての事象において理性に基づく設計を目指す。フランス革命、共産革命とは、近代合理主義が政治の領域にもたらした産物に他ならない。しかし、その合理主義は人間存在そのものに付随する不可思議を考慮できぬために、躓かざるをえない。正義の使徒ロベスピエールが血も涙もない殺人鬼となり果て、国土を廃墟とせしめたことや、人間性が僅かも存在しえないソ連の狂気の全体主義体制とは、人間の宿命を感受できぬ傲慢な精神の行く末を暗示していたかのごとくである。
人間とは不合理なるものであることを自覚できるか、否か。この自覚を有する保守主義者は自らを非合理とは考えぬ。自覚なしに理性を盲信することこそが、彼の目にとっては非合理と映らざるをえないのだ。人間の宿命的非合理を甘受する合理、奇妙なパラドクスこそが保守思想の真髄である。
保守思想の持ち主は世に蔓延る合理性の過剰とは常に戦い続ける運命を背負わされている。ある共同体に生れた限り、その共同体の保守は保守主義者にとって当然の責務である。多くの先人によって築き上げられた共同体は、現在の生者の理性を超越した叡智を内包しているからである。
一方、合理主義者は歴史の叡智を否定し、それを傲岸にも虚構と見做す。しかしながら虚構であることを指摘しただけでは歴史の叡智を否定することにはならないのは、保守主義者にとって自明のことである。人間の住む世界とは合理性に基づいた真実の世界のみではありえず、「虚構」や「憶見」が人々の幸福を保障していることを彼は知っているからである。譬えてみよう。合理主義者が夫婦関係は虚構に過ぎないと言ってみたところで、多くの人々はその虚構を信じ、あるいは演じながら幸せに暮らしているのだ。過度の合理性の追求は単なる破壊と不幸しかもたらさない。あまりに明白ではないか。同様にして共同体の成員であるということの否定を愚かにも合理主義者は企むから、保守主義者はこれと戦わざるをえないのだ。そのとき彼の背中に使命の重さを感じさせるものこそが歴史に他ならない。
我が国を我が国たらしめるために多くの先人の苦悩があり犠牲があった。例えば大東亜戦争における特攻隊の存在は、その最大のものといってよかろう。今、その時代を振り返りその一人一人に、何という辛く、悲しい時代に生まれられたのだとの悲しみと同時に、我が国を守り抜いて頂いた感謝と尊敬の念を寄せるとき、精神において過去と現在が繋がってくる。この過去、我が国に生きた人々と、今生きている私が繋がっているとの感覚こそが、保守主義者の愛国心に他ならないのである。
人智を決して過大に評価することなく、自らを育んできたその共同体を限りなく愛し、未来の国民へと守り抜く戦いを続ける姿こそが、保守主義者の姿である。
保守思想とは戦闘的な思想にあるべく運命づけられている。


