澪標通巻62号
メタフィジカル・クリティック宣言 井尻 千男 拓殖大学名誉教授
わが祖国がいくさにやぶれたとき、私は国民学校の一年生だった。疎開とB29の空襲を体験してのちに玉音放送を聴いた。私が見た進駐軍は皆、長身の白人兵だった。学校給食で米国支援のパンと脱脂粉乳を食し娯楽といえばハリウッド映画。スポーツといえば野球一色だった。
わが祖国が講和条約の発効によって主権国家に復したとき、私は中学二年生だった。
そのころから私は読書することに目覚め、ひとり本屋に行くようになった。主要な関心事は文学というより哲学にあった。とてつもなく深遠な学問らしいという期待に胸おどらした。
そのころのことだった。雪の八ヶ岳山中で服部達という文学者が自殺を遂げたという新聞記事が、私の目にとまった。その直後に、いくつかの雑誌が服部達を追悼する文章を掲載した。「メタフィジック・クリティックの旗手・服部達」、「われらにとって美は実在するか」というフレーズが、哲学に関心を懐きはじめた少年の脳裏に焼きついた。それと同時に、メタフィジカルな文芸批評を考えているグループがあることを知った。そして、いつか自分もその列に参じたいものだと夢見たはずではあるが、実際の読書体験は、時流に流されていく。
当時の時流は圧倒的に左翼、スターリン神話も健在だった。本屋で手に出来る哲学書も当然、唯物論、唯物史観、そして論理展開はすべて弁証法ということになる。
文芸論も社会主義的リアリズム一辺倒。言語も存在の反映にすぎないと。そして学問分野においては、実証できないことは、すべて神話にすぎないことになる。
実証できないことをすべて「神話にすぎない」として排除してしまうという点に関しては、唯物史観と実証主義史観は相似ているのではないか。その疑問はおもに言語論からはじまる。たとえば「絶対」という言葉がある。あるいは絶対という観念にとりつかれた人間がいる。だがこの言葉は「存在」と対応していない。誕生したときからメタフィジカル(形面上学的)なのである。実在と対応する言語をフィジカル(形面下的)だとすれば、絶対はまさにその対極を意味している。非在なのである。つまり「存在」するものとの対応関係だけで言語を考えること自体に無理があるのだ。「神は実在するのか」と問うことからその疑問は始まるだろう。しかしながらわれわれは、絶対の象徴としての神を信ずることができなくとも、絶対という言葉、絶対という観念を抜きにして、ものごとを考えることができないのである。逆にいえば、人間は実在との関係において自由なのである。
権力に対する自由の観念はわかりやすいことであるが、自由の議論をもう一歩進めれば、われわれは実在に対しても自由であり、その根拠はなにかといえば、言語というものが実在と乖離しているからである。
私が左翼思想を全面的に懐疑するようになったのは、おもに文学および芸術論においてである。そして、その懐疑はたちまちにして文学論と歴史論における実証主義的方法に及んだ。つまり、近代的合理主義に基づくところの学問としての実証主義というものが、形而上学的なるものを追放してしまったという意味で唯物論的だからである。逆にいえば、メタフィジカルな観念領域を大事にする立場に立てば、実証主義的研究というものと、唯物史観というものが相似形に見えてくるということである。
そのことを語るまえに、また少々自分史に言及することをお許しいただきたい。
いわゆる「六〇年安保騒動」というのは、私が大学二年生から三年生にかけてのことだったが、そのころの私はほとんどニヒリズム状態で、文学的関心としてはジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』に感じ入っていた。この作品のテーマは「存在と言語」といっていいのであるが、存在はついに言葉を生まないというニヒリズム、存在と失語症の関係といってもいいだろう。待っても待っても存在は言葉を発することがない。言語はどこからくるのか。存在論的にニヒリズムのなかで主人公のロカンタンはマロニエの根っこを見ながら嘔吐するに至るのであるが、最後の最後に「物語」という過去からの贈り物と和解してニヒリズムからの脱出を決意するのであった。私も一時期「存在と言語」について、ロカンタンを真似して実験的生活をしてみた。実在するものと言語とがいかなる関係にあるのかと。だが、物自体が言語を発することはついになかった。私はそのような実験をしつつ、あやうくノイローゼになりかけた。そうして私は「唯物論」とは正反対の「唯言論」こそが真実であり、それこそが人間たることの証明なのだと確信したのであった。
そのような精神状態であったから、私にとっての「六〇年安保」は、ニヒリスティックな青年の破壊衝動の一つにすぎなかったといえる。少々体力と腕力に自信があったから、いつも過激な状況に身を置きたいと願いつつ、国会突入のときもそこにいたし、放水車の水圧に耐えて投石もした。これが私流の別れのあいさつだった。
この騒動の終わった直後に、私は初めての文芸評論の試みとして、三島由紀夫論を書くことにした。ひそかに私なりのメタフィジィック・クリティックを書きたいと願望したのである。近代文学の研究者がよくやる「作品と実生活」の実証的研究に対する私の懐疑と嫌悪感はすでに十分に育っていたから、それとは最も遠いところから『仮面の告白』の文体を考察することにした。題して『三島由紀夫試論―「仮面の告白」を手掛りに』という小論が大学の紀要に掲載された。大学四年の春だった。しばらくして、大学の職員から村松剛さんが呼んでいるという連絡があった。村松氏は当時、立教大学でフランス語を教えていた。
村松氏は会うなり「君はなかなか早熟だな」と言った。そして「自分の最初の文芸評論も三島論だった」とも言った。その氏との最初の会話のあと、雪の八ヶ岳山中で自殺した服部達のグループに村松剛氏の名があったことを思い出した。不思議な縁を感じざるをえなかった。私自身もメタフィジック・クリティックを十分意識していたからである。
私が実証主義を懐疑する最大の理由は、その「還元主義」的ベクトルにある。ゾルレンをザインに還元していったい何が面白いというのか。偶像破壊には有効だろうが、超越的精神を語ることには不向きなのである。そのことを歴史的文脈でいえば、啓蒙主義の延長線にあるといわざるをえないだろう。もちろん私とて実証主義の不可欠の分野があることは十分に承知している。だが同時に実証主義では語り得ない領域の大きいことにも留意せねばならない。
たとえば明治天皇の崩御に殉じた乃木希典の精神、祖国防御のために特攻で散華した将兵の精神、あるいは歴史的正統性を護持するために死地に赴いた武人の精神を理解するためには、彼らの信じた形而上学を復元してみなければならない。つまり実証主義的還元ではどうにもならないのである。
人間と歴史を、権力欲や物欲や色欲に還元して何が面白いというのか。サルトルは処女作で『嘔吐』を書き、晩年に『聖ジュネ』を書いた。前者は存在論的還元であり、後者は言語による聖性への飛翔である。サルトルの左翼的言辞は世すぎ身すぎにすぎない。
最後にわが国の言論状況について語らねばならない。わずかな例外を除いて、俗流の実証主義が猖獗を極めているといわざるを得ない。経済学的思惟が過剰になったからにほかならないのだが。この体たらくを脱するために何をなすべきか。その方途はまったく見えない。せめてのところ、歴史を振り返り、過去の形而上学を復元することから再出発するほかないだろう。

